手紙

まずはじめに、彼に手紙を書こうと思った。彼のことを思ってではない、僕は僕について彼を通して語りたいと思っている。

 久しぶり、なんといったらいいのだろうか。この文章を今の年齢、今の文章能力で書こうと思ったのには、幾つかの理由がある。ひとつは、君がいつものようにまたこの世の中に対して、生れつきとしか言いようのないほとんど仮病(本人も、家族も医者も、周りの友人もそう診断しない!)のような、今日を放り出してベッドに寝転ぶことを肯定する、意識に陥っていること。ふたつめは、僕自身がそういう気持ちのことが、少なくとも23年間歳をを重ねた中で、理解できてきて、それを否定することが自分の感情や使いたい文体や単語に関係なく、文章にできそうな気が、夜中歩いている時に限って僕の心に湧き上がってきていること。最後は、誰かが書いた文章のアーカイブのなかから選ぶより少なくとも、(正月の餅でも二人でつくというのに)自分が一人でこさえた文章が、君の足を、手を、胃袋をまた明日に向けて使おうと思わせるだけの力を発揮できるだろうと感じていること。

 同じ時間を共有する以上に、ただお互いのなかでお互いの言葉を反芻する時間が多かったとはいえ、君をそういった境遇から救い出したいと考えた時間は人一倍であるという自負はある。だけれどその時に用いた文章の引用句や、例に出した歴史、作品、これまで人類が生きてきたなかで、宗教的な理由もなく多くの人が、救われたような、繰り返されてきたという理由だけはある種の宗教らしさのある、星々たちが、その都度君に有効だったかということに近頃不安を覚えている。それらの輝きが長い長い年月のなかで救ってきた人々というのは、僕のようにろくでもない人間だったんじゃないかと思ってきたんだ。我々ろくでもない人間たちが作り出したろくでもない人間の歴史、その中で君の毎日の暮らしがもっとよくなると錯覚していた。このことはまずはじめに謝っておきたい。申し訳ない、僕が嬉々として集めていた本が、君の本棚にも顔を出しているようなら、それは間違いだ。どうか捨てておいて欲しい。だからこそ、これからここに書く話は、これまでと全く違った登場人物と、ある種の複雑な眼差しで書かれているとそう誓いたい。

 

 僕の10代から今にかけての1日のテレビの見ている時間の、月間を横の軸に据えたグラフを見たら、誰だって、登頂は難しいと言われる何処か遠い国の雪山の遠景のポストカードを思い出すだろう。(登頂した人の笑顔と、山下にいる人の今にも野次をとばしそうな意地悪な顔が写っていれば僕も孤独を感じずに済む) そのグラフは、僕の友人たちに対する、親切さのようなものと比例していると断言していい。小学生の時僕はほとんどテレビを見ない少年だった。中学生の時この世に面白いテレビ以外ないんじゃないかと信じるような熱狂的な生徒だった。高校の時は見るということに居心地の悪さを感じてしまい、何か文句を言いたい時にだけテレビの枠を使う醜悪な批評家になっていた。そして成人を目前にして全くテレビを見ることがない男になった。また、この項の終わりに、ここまで読むに耐えない文章を綴ってきた中で、もっとも恥ずかしい告白をせねばならない。そのグラフは僕の自意識の熱風ともいえるよう、な革命指向の増減とも全く同じ形を示している。

 

これから少し時間をかけて誓いに近づけるよう君にも思って欲しい。

 

我々が白黒の画面を覗き込んだポケモンを開始し、旅に出る前に、まず自宅の一階でテレビを調べるとこうテキストが現れる。

「えいがをやっている。よにんの こどもたちが せんろのうえをあるいている。 ぼくも もういかなきゃ!」