断片的なものの夢の骨

幼少期から青年期にかけて、一本の道と共に生活していた。母の自転車に荷物として乗せられていた時(その道すがら転倒し、そこに刻まれた溝に伏した記憶もある)、小学生になり友と昆虫を積極的に捕獲していた時、中学生となり部活動によって走らさせれたその頃の世界の全て、その道の途中にあった。

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長谷川白紙の「夢の骨が襲いかかる!」を聴いている時、頭に浮かぶ映像は全て逆再生だった。どこかで見たことある早回しで花が咲く映像や、「powers of ten」のように俯瞰した世界の映像、それらが断片的に逆再生される。

収録されたサンボマスターの「光のロック」を聴いて、懐かしいと思い、サンボマスターのオリジナル録音を聴き返した。一音で世界がロックを聴いていたころに戻るような想いに駆られた。ロックという音楽(特にそれにまつわるバンドの音楽という邦楽)には、定義が明確ではないと感じていたが、じゃあロックを聴いていた頃、というのは何を聴いていたのかと分からなくなる。ただ、『戻るような想いに駆られた』こととその手触りそのものが、その頃聴き好んでいた音楽に相似していたことは間違いがない。

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無関係に見える連続した断片的なものが、集合として見ると意味を帯ていき、大きな一つの道となっていく過程は面白い。それが『作品として面白い』というわけでなく、それが頭の中で形成されていく過程が面白いと感じる(それが作品として面白いわけなのだが)。

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高橋源一郎が「ぼくがしまうま語をしゃべった頃」に若き日の獄中でのエピソードを書いている。持ち込んだ本に読み飽きた高橋は『2冊の小説を裁断し、それぞれのページを交互に組み合わせ再読し、物語を頭の中で再構成していた』そうである。これを真面目にそうなんだ!と事実と受け入れたりはしないが、断片的となったものを再構成する想像力が、高橋にとって大切であること、その後の作品の世界を読んでいてもは間違いない。

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長谷川白紙によって和音とリズムが細かく刻まれた楽曲は、刻まれたそれぞれの断片によって再構成される世界を想起させる。それら(断片同士や、楽曲-楽曲)の間にある目に見えない関係性が吸着する運動の音が、カバーアルバムという幕の内弁当ではなく、一つの道として、彼の身体を聴くようなアルバムになった要因のような気がした。