ラーメンズ・メモ1

小林賢太郎が作るコントに格別の贔屓をしてしまう人間、中でもラーメンズの復活を願う人間、は「ラーメンズのコント」と「それ以外の作品」に対して線を引いているように思う。少なくともわたしに限ってはそうである。

中学生くらいの時にネットで、東京03は「日常の中の非日常」の笑いで、ラーメンズは「非日常の中の日常」の笑いが描かれていると、誰かお笑いに熱心な人が書いているのを読んだ。そう言われるとそう見えてくるもので、突飛な設定でもその世界の普遍性を感じていた。(「斜めの日」など)

わたしは笑いに関して、中嶋らもが書いていた、「シュールレアリスムスーパーリアリズム」の関係を支持している。シュールレアリスムについては深く言及はしないが、この世界で組み合わせてきていないものが関係することの笑い。スーパーリアリズムはこの世界に実際にあるものの、あまり取り上げることのない小さな日常のクローズアップとなる。宮沢章夫スーパーリアリズムをエッセイで書くことが多い。その代表的なものは、「牛乳を飲んだあとその飲み口を見つめる」という描写。すなわち、まだ発見されていない「あるある」である。

それらを組み合われると、シュールレアリスム(非日常)のスーパーリアリズム(日常)となり、ラーメンズのコントはその要件を満たす。しかしその要件をもっと完全に満たしたものが他にある気がして、ラーメンズをその系譜だけで語るには足らない気がしてならない。完全に満たしたもの、とは松本人志のコントである。

 

松本が作ったコントの中でも、その文脈でとりわけ語られることの多いのが「とかげのおっさん」である。松本が扮するとかげのおっさんが少年と友情を深めつつ、その世界で生きることの厳しさが笑いと悲哀によって描かれている。

とかげのおっさんという突破な存在が、その世界に生きていることに対してのリアリティは、「非日常の日常」を強く感じさせる。しかしここで重要なことは、松本の描くとかげのおっさんは、観ている人間を笑わせようとはしていないことだ。コントを書いている松本は笑いを作っているが、とかげのおっさんは見ているものを笑わせようとはしていない。少年に元気な姿をみせる戯けた動きはするものの、それ自身がその面白さを視聴者にアピールするものではない。その世界で必要だったから、少年に対してアピールしているのである。それが「日常」であり、どんな世界でも切り取ったときに見ている人を笑わせようとしている人はいない。

では、ラーメンズのコントはどうだろうか。結果としてラーメンズのコントは誰を笑わせようとしているものなのか考えてみたい。