ラーメンズ・メモ3

笑いについて語るとき、誰もが使いたくなる言葉がある。緊張と緩和である。これは桂枝雀が著書で笑いの構造について定義した言葉で、緊張⇄緩和の運動が笑いになると説明される。例えば、お葬式の席で坊主が転ぶと面白い(緊張→緩和)とか、いないことに不安を覚えそれがすぐさま解決されるいないいないばあ(緊張→緩和)などが挙げられている。例は本にあった内容(記憶が確かなら)なので少し古さを感じさせるが、不安から安心へ、という機能和声にも似た構造そのものは、現在でも理解できるだろう。

これまで書いてきた「非日常の日常」のラーメンズにおいて、「緊張と緩和」はどう機能しているのか。

第一に、非日常と日常の組み合わせ自体は無限に存在し、その中での見たこともないバランスを探すことに笑いを目指すものは心血を注ぐ。しかし、緊張と緩和自体は、バランス感は必要なものの、その落差が強いものほど強い笑いを作る可能性を持つ。

その落差を極限まで高める、完全な緊張の空間と、完全な緩和とはなんだろうと考える。

 

完全な緊張の空間とは、どんなところだろうか。

それは絶対的な無である。何もない空間、自分の中に落とし込んで理解できる手がかりが何もない空間こそが、有の世界を生きてある我々にとっての緊張の場となる。

ラーメンズのコントの舞台装置はほとんど無に近い。一色塗りの舞台に、二人で一色揃いの衣装。それはただのかっこよさや、クールさの演出ではなく、コントにおいては「緊張」の演出となる。

完全な緩和とはなんだろうか。それは定義できない。すべての人間が休日に同じことをしないように、人によって緩和の状態は違う。だが、舞台において登場人物と演者の緩和の状態を見せることはできる。それは相手に安まった状態を曝け出すこと。緊張した言葉を発するのではなく、ただそこにでてきた言葉を発すること。それを躊躇なく言い合える関係がみえること。これが観客から見た場合の、緊張からの緩和となる。絶対的な無の空間に訪れる安堵の瞬間は、コントの質そのものに影響する。

書かれたコントそのものの面白さをより際立たせるために、緊張と緩和の演出がかけられている。真実はわからないが、わたしにはかかってみえる。