「スワン家の方へ」より

私の大叔母が祖母に与えたそんなひどい仕打、祖母がはじめからあきらめたかのように、祖父からリキュール・グラスを取り上げることができないで空しく懇願するその弱気の光景、それらはやがて見慣れるもので、はては平気で笑いながらながめ、今度はむしろ積極的に面白がっていじめる側についてしまい、自分ではいじめているのではないとさえ思い込むようになるものであったが、当時の私には酷い嫌悪感を与え、私は大叔母をひっぱたいてやりたかった。しかし「バチルド!止めにいらっしゃい、ご主人がコニャックをお飲みですよ!」と耳にすると、卑怯の点ですでに大人であった私は、われわれが大きくなると、みんなよくやること、目の前に他人の苦しみや不正があるときによくやることをした、つまり私は、それらをみようとしなかったのだ。私は家のてっぺんに上がっていって、勉強部屋の脇にくっついた、屋根裏のある小部屋ですすり泣いた。アイリスの香がただようその小部屋には、また野生の黒すぐりが匂っていたが、その木は高い石垣のあいだから生えて、花のついた一枝を半びらきの窓から差し込んでいた。

ほんとうはもっと特殊な、もっと下品なある用途にあてられていたのだが、昼はそこから、ルーサンウィル=ル=パンの楼閣まで見わたせたその部屋は、長いあいだ私のためにかくれ場の役をはたした。なぜならそれはおそらく、私が鍵をかけてはいっていることのできた唯一の場所だからであろう。すなわち、誰にも侵されてはならない私の用事、読書とか、夢想とか、すすり泣きとか、快楽とか、そんな場合のすべてに使われていたのである。ああ!私は知らなかったのだ。午後や夕方に、祖母が休みなしに、ぐるぐる底をめぐっているあいだ、その夫にわずかな不摂生よりも、私の意志の欠乏、私の虚弱な体質、それらが私の将来に投げかけていた不安の方が、はるかに悲しく彼女の思いを占めていたことを。そして空に斜にあげたまま、私たちのまえをくり返し過ぎていく彼女の気品ある顔をみていると、その褐色の、しわよった頬は、鋤きおこされた秋の畑のように、更年期のためにほとんどモーヴ色になっていて、そとに出るときはすこし高目にあげた小さなヴェールにかくされているその頬の上には、さむさのためか、それとも何か悲しい思いにさそわれてか、知らず知らずに流れた涙のしずくがいつも渇こうとしていた。

 

失われた時を求めてⅠ スワン家の方へ /  マルセル・プルースト 井上究一郎